サンタナ創業者、永眠の御報告


サンタナからのお知らせがあります。


サンタナの創業者であり、クンナ・トゥンナ・フォクナの父である、
チャンドラ・セカール・ダッシュは2014年5月5日に永眠いたしました。


腎臓を患っており、83歳の生涯を閉じました。


早速お知らせ申し上げるべき処でございましたが
ご通知が遅れました事を深くお詫び申し上げます
葬儀はホテル・サンタナにて5月14日に執り行う予定です。
ここに生前のご厚誼を深謝し衷心より御礼申し上げます


平成25年5月12日




若い頃の肖像画


チャンドラ・セカール・ダッシュの言葉 


「Indian movie, Plastic flower」
映画や造花など本物でないものを求めることを諌める言葉。


「Indian everything nandia(オリア語であまり良くないの意)
no man gentleman, woman king, solt kilo 1Rs, poor men dead.」
インドは問題が多い。男で紳士はいなく、女の人が王様になる。
塩が1キロ1ルピーになったら貧しい人たちはどうやって生きていくのか。
(名ばかりの政策などを批判する言葉)


「white road, black road」
正しい道と間違った道がある。正しい方法で戦うと大変だが最後には勝つ。
間違った方法だと一見近道だが最後には負けてしまう。



3年前のラタ・ヤットラにて山車を引くC.S.ダッシュ


サンタナに縁のある皆様、坂本です。インドに来る外国人旅行者、特に日本人旅行者を
助け続けたC.S.ダッシュ氏が亡くなりました。お亡くなりになる2日前にサンタナ・ロッジを
訪れた際には自分の足でロッジまで入り、日本のお菓子を二口召し上がりました。私も
お会いするのが久しぶりでしたがちゃんと覚えていて下さり「ババ」と言いながら頬を手で
挟んでくれました。5日は体調が優れず病院に行くために、実家の2階から1階まで
ちょっとした介助のもと階段を降り座ったところで亡くなりました。


サンタナの家族は皆非常に悲しんではおりましたが、苦しまずに逝ったことがせめてもの
慰めだったようです。


生前、サンタナ創業者であるC.S.ダッシュ(以後セカール)はお客さんが来る時と
去る時には必ず本物のジャスミンの花を手渡していたそうです。また貧しい人や
困っている人がいたら躊躇なく助けていました。他にもインドで旅行者は料金の上乗せや
お釣りのごまかしを受けることは日常的にありますがそのような風潮に断固とした
「NO」の姿勢を貫いた高貴な方でした。プリーの町では「セカールバイナ
(セカール兄さん)」と親しまれてます。



亡くなる数日前の写真。 孫達・トゥンナと。


クンナ・トゥンナ・フォクナから、彼らの父セカールの話を聞いたものを以下に記します。


セカールはインド独立を15年以上遡る1931年、この世に生を受けました。生まれたのは、
オリッサ州の州都ブバネシュワルとプリーの間にあるクルダロードの近く。父は村の
バラモンとして儀礼を執り行うことで生計を立てていました。


家族からはセカールも当然、司祭として働くことを期待されており実際20歳前後までは
父の手伝いで司祭をしていました。しかし心の中では町に出て何か別のことをしたいという
起業家の精神がありました。セカールはふとしたきっかけがあった際、家族の反対を
押し切り村を出てプリーに出てきました。



開業当時の現サンタナ・ロッジの写真


当時のオリッサ州は一つの州として機能していました。ただ、1919年までのイギリス領
インド帝国時代は現在コルカタがあるウェストベンガル州とバングラディッシュ
ビハール州と同じ行政区分でした。そのような歴史の中、プリーは以前に東インド会社
関係していた裕福なインド人の別荘地でした。セカールは当初プリーに3,4軒しか
なかったホテルのウェイターとして働きはじめました。


その後、貯めたお金で小さなレストランを始めました。コルカタの裕福なインド人達は
セカールを信用し別荘の鍵を預けると共に以前、東インド会社に関連していた外国人を
紹介したのです。ヒッピーやバックパッカーが集うのはもう少し後の時代になります。



最初のサンタナ・レストラン


当時インドが独立し、西洋的なものの排斥を訴える層と近代化のために西洋近代の考えを
良しとする層で議論がされていたという時代背景もあります。そういった論争の最中、
バラモン階級であれば一般的にはしない皿洗いまでしながら新しいビジネスを立ち上げる
セカールは批判とやっかみも受けることになりました。他の多くのプリーの人たちは
外国人のことを「Red Monkey(赤い猿)」と呼んでいた時代です。しかし批判の一方、
富裕層の子女達は英語を勉強をしたいとサンタナ・レストランに集まってもいました。


セカールはただ、外国人が困っていたのを見逃さなかったというだけのことでした。
インドにおいてスパイスの効いた食事に辟易している外国人の声に耳を傾けたというだけの
ことだったのです。



1980年代のジャガンナート寺院


セカールはオムレツなど簡単な西洋料理を作りただ困っている人の力になっていました。
自分のお客に会いに来る子供を叱らずに、自分のレストランを責めるプリーの人たちを
見て本質的でないと感じました。「Indian movie, plastic flower」この言葉を使う
きっかけの1つの事例です。


ちなみに「Indian everything nandia(オリア語であまり良くないの意)no man gentleman,
woman king.solt kilo 1Rs, poor men dead」に関しては以下のエピソードがあります。
インディラ・ガンジー(インド初女性首相)の首相時代、貧困対策が理念として掲げられ
ました。しかし官僚が実際にしたのは、政府の土地に住んでいる貧困層のために町から
20キロ先に家を作り、一方で増税により塩の値段は50パイサから1ルピーに値上がり
したのです。町から離れることで施しを受けられなくなり、且つインドの貧困層にとって
欠かせない塩の値段を上げることで、更なる困窮に追い込まれてしまいました。上記の
言葉はこういった状況を見ていたセカールが、本当に必要なサポートを提供できていない
インドに対する苛立ちから発せられました。そこから名前ばかりが先行するインド人の
プライドに対しても使われるようになりました。



1980年代のグランドロード。まだバイクがない。


当時、セカールは政府の土地ではなく人の土地を借りてサンタナのレストランを営業して
いましたが、この政策やセカールへの町の人達からの妬みもあり、サンタナ・レストランは
移転を余儀なくされました。その頃にはお客さんの中に宿泊を希望する人も多くなっていた
こともあり、ベンガル人の地主に土地を借りてゲストハウスを開業しました。こうして
サンタナ・ロッジは誕生しました。この頃セカールは結婚しそして長男クンナが
生まれました。


ゲストハウスを開業してからもまだ苦難は続きます。実は今あるサンタナ・ロッジは移転を
2回経た後のものなのです。ヒッピー時代になり聖地プリーを訪れる外国人が一気に
増えました。必然的に外国人用のゲストハウスが雨後の竹の子のように増えました。
しかしレストラン時代からのセカールを慕って、またクチコミでサンタナ・ロッジは
常にお客さんが溢れていました。レストラン時代の「奇妙なことをするバラモン」という
批判から、今度はビジネスにおける明確なライバル達からの嫉妬を集めることになり
ました。



1980年代のバススタンド周辺


足を引っ張られ移転を2度経て「土地を借りてやっていては駄目だ!」ということで
土地から購入したのが今のサンタナ・ロッジです。当時は周りに店や他の建物も少なく
ジャングルの中にあるような状況でした。最初は特に苦労しましたが、それでも常連の
お客さんやクチコミが戻ってくることで2年程するとお客さんで賑わうようになりました。
セカールは、インド人とケンカしてしまう欧米人との間で仲裁をしたことも多く
ありました。


何よりサンタナの歴史の中での最大の事件はその名前の通り「サンタナ事件」と呼ばれる
ものです。ロッジに宿泊しているお客さんを守るために警察の要求をはねのけたために、
警察官50人が乗り込まれ警棒で叩かれた後、お客さん共々刑務所に入れられてしまった
のです。



サンタナ・ロッジにて。三男フォクナと一緒に。


その後、日本大使館・フランス大使館を巻き込んだ末、法廷で勝利を納め有利な条件で
示談になりました。時の警察はその横暴な捜査の理由を「テロ」や「公務執行妨害」など
理由を付けておりました。そうした役人の理由づけを指し
「Indian movie, plastic flower」であり、本物でないと後に語りました。


ただこうした示談などによってセカールは警察や政治家と賄賂ではない形でコネクションを
作っていったのです。町の人達にも認められていったのはこの後のことになります。



セカール近影。プリーの政治家達と。


レストランを含む4回に渡る移転、多くの困難を乗り越えて今のサンタナがあります。
そして、この後は皆さんの知る通りです。セカールは徐々にその仕事を息子達に譲って
いきました。そして長男のクンナが日本語を覚えることで日本人宿として機能していき
世界旅行者にとっては必ず寄りたい宿になりました。世界1のコストパフォーマンスだと
いう評判を頂くこともあります。


また、サンタナを日本人宿として再構築したクンナの日本でのビジネス展開やトゥンナの
弁護士資格取得、サンタナ・ホテルや彼の名を記した学校の建設、フォクナによる
サンタナのチェーン展開、他にも長女リナの結婚・出産や次女ミナの日本行きや保育士
資格取得、日本で働くインド人との結婚、そして出産。フォクナ以外のセカールの子供は
結婚し子供もいます。



プリーにおける日本祭りにて。


セカールの子供達は皆個性とエネルギーが尋常じゃないのでケンカになると大変ですが、
心から優しくそして同時に強いのです。そして強い信頼で結ばれています。それは
セカールの背中をみて育ったからでしょう。だからこそ2代目の時代でこれだけ事業を
進めることができたのだと思います。



多くの修羅場をくぐり抜け人の酸いも甘いも知り尽くし、それでも明るく人を信じ続けた
セカール。彼が生前よく使った言葉が冒頭の言葉たち。


「Indian movie, plastic flower」

「Indian everything nandia. No man gentleman, woman king. Solt kilo 1Rs,
poor men dead.」

「White road, black road」



これらの言葉に共通しているのは「本物たれ」ということかもしれません。
サンタナはこれからもその創業者の魂を引き継ぎつつチャレンジをしていきます。
シンプルな理念。困っている他者を助けること。そして本物を求めること。



長男として葬式を取仕切るクンナ。


C.S.ダッシュ氏は亡くなる前に階段を下りて最後のステップを降りてから
「ティッケ、ボシビ」(ちょっと座る、休む)と一言。
水を一口飲んでもう一度持ってきた時には息がなかったとのことです。


読んで頂いたように激動の人生を歩んできたC.S.ダッシュ氏の最期の言葉は
「ちょっと休む」
でした。胸が詰まる思いがします。ちょっとではなくゆっくり休んで頂けるように、
サンタナの家族共々精進致します。安心して見守っていて下さい。



日本での一枚。


※プリーの町の人達のことを批判するような論調に見えたとしたらそれは私の筆の力が
未熟な由です。時代背景を考えればC.S.ダッシュ氏が先鋭過ぎたということもあるとも
言えそうです。フォクナに以前、「お父さんは凄かったけど、町の人ともう少しうまく
やる道もあったと思う」と述べていました。



最後まで読んで頂きありがとうございました。






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